速水堅曹について

速水堅曹ってどんな人?

富岡製糸所長時代の速水堅曹。速水壽壯氏所蔵
富岡製糸所長時代の速水堅曹。速水壽壯氏所蔵

速水堅曹は、1839年(天保10)6月、川越藩の下級武士の家に生まれる。幼くして父を亡くし、家督を相続する。貧乏のために苦労をするが、勉学にはげみ、武士の勤めを果たす。

幕末維新という大きな時代のうねりのなかで、彼は生糸改良の志をもって実行していく。製糸業の近代化を果たすために先陣を切っていった。

 

 29歳で維新をむかえた堅曹は、藩命により横浜に生糸売込問屋を開設する。1870年(明治3)製糸教師のスイス人ミューラーから器械製糸技術のすべてを学び、日本ではじめての器械製糸所「藩営前橋製糸所」をつくった。富岡製糸場に先んずること2年前である。日本最高の製糸技術者となった堅曹のもとには、全国から先見の明のある者たちが見学と伝習におとずれた。


たしかな技術と知識、器械製糸業発展の国家ビジョンをもつ堅曹は、1875年(明治8)、請われて内務省にはいる。最初に富岡製糸場の経営診断をおこなった。お雇い外国人の解雇、工女の雇い方の見直し、民営化を提言した。翌年には米国フィラデルフィア万国博覧会に繭糸織物の審査官として派遣される。

富岡製糸場が開業して7年、フランスから「トミオカシルク」の品質が落ちたと知らせが届く。堅曹は改善を期待されて所長に就任、製糸場の改革に取り組み、ほどなくして評判を取り戻す。

 

その後、生糸の直輸出商社「同伸会社」の頭取に就任するため所長を辞すが、引きつづき富岡製糸場の監督指導をおこなう。1885年(明治18)ふたたび所長になり、1893年(明治26)三井家に払い下げるまで務め、14年の長きにわたり、その経営にたずさわった。

その間、堅曹は「製糸の業は精神の業」という信念にもとづき、工女たちの生活と学習環境を整えることを第一にした。その結果高品質の生糸製造を果たし、生産量の増大と経営の黒字化を実現した。富岡製糸場は官営時代後期に黄金期を迎える。

 

藩営前橋製糸所 速水堅曹資料集より転載
藩営前橋製糸所 速水堅曹資料集より転載

創業当初の富岡製糸所 繰糸機械 速水堅曹資料集より転載
創業当初の富岡製糸所 繰糸機械 速水堅曹資料集より転載

 一方、払い下げ問題は紆余曲折した。民営論者である堅曹は、高品質の糸を製造する富岡製糸場は日本の亀鑑工場として残すことが最善と考え、政府からだされた廃場論を一蹴した。「永続を主眼」にした払い下げにこだわり、富岡製糸場を守り抜いたといっても過言ではない。

堅曹は、生涯を通じて多くの器械製糸家を育て支援し、最晩年まで生糸の直輸出の拡大に心を砕いた。日本が世界一の生糸輸出国となったのを見届けるようにして、1913年(大正2)1月、横浜の地で亡くなる。享年74。


略年表

西暦 年号 月日 出来事
1839 天保10 0 6.13 川越藩士速水政信の3男として埼玉県川越市に生れる
1849 嘉永2 10 10.13 父政信亡くなる 遺跡を相続
1852 嘉永5 13 11 元服 初めて藩の勤務に就く
12 本禄を賜う 七石二人扶持
1855 安政2 16 3~7 お台場警衛のため東京高輪に四ヶ月勤める
徳川斉昭から「一段の事なり」の言葉をもらう
1861 文久元 22 12 藩主松平直克 家督相続
1863 文久3 24 12 藩主の上京に供奉して京都へ行く(~翌年8月)
1864 元治元 25 9.29 川越藩士石濱與作次女幸と結婚
1866 慶応2 27 9 前橋城再築国替えに付き、前橋に転居(前橋藩士となる)
1867 慶応3 28 10.30 藩主の秘密の御用で結城、銚子へ行く
この後しばしば御内用、密議あり
12 郷兵取立ての建議をする
1868 慶応4 29 8 砲隊へお取立、家禄十二石三人扶持
9.1 初めてお目見えする
1868 明治元 29 10 生糸を改良する内議が決まる
藩命でしばしば横浜に行く。神奈川県知事寺島宗則らに相談して藩の生糸売込店の出店準備にあたる
1869 明治2 30 3.31 藩営生糸売込問屋「敷島屋庄三郎商店」を横浜本町2丁目に開店
5~9 生糸改良と商売の実地体験のため福島地方に出張
「百万の富人を百万人作る」
と決心する
9 横浜にて英一番館と前橋藩との船購入のトラブル処理にあたる。裁判をする(~翌年4月)
1870 明治3 31 3.25 スイス領事館へ行き領事シーベルと相談
ヨーロッパの生糸相場表を見て生糸改良を痛感
教師を雇うべきと助言される
5.15 藩の生糸取締役となる
6.4 スイス人生糸教師ミューラーを雇う(4ヶ月契約)
6 日本最初の器械製糸所「藩営前橋製糸所」を細ヵ沢(前橋市住吉町)に設立
全国から見学と伝習を希望する者がおとずれる
1872 明治5 33 10.4 〔官営富岡製糸場開業〕
1873 明治6 34 3 福島県知事から製糸場新設指導のため招かれる
6.18 「二本松製糸会社」開業(日本最初の株式会社)
8 福島県中属となる
11.1 松方租税権頭へ製糸の件を建白する
1874 明治7 35   養蚕製糸所「研業社(関根製糸所)」を勢多郡関根村(前橋市関根町)に新設
7 黒田開拓次官来て北海道に招かれるが断る
1875 明治8 36 3.4 内務省九等出仕となる
3 富岡製糸所の経営調査をする(日本最初の経営診断)
  群馬・福島を巡廻
6 五代友厚と密談
1876 明治9 37 4.10 米国フィラデルフィア万国博覧会へ繭糸織物等の審査官として渡米(~9.8帰国)
11.13 東京京橋区日吉町(中央区銀座8丁目)に転居
1977 明治10 38 8~9 群馬・栃木・長野・岐阜・埼玉を巡回指導
10 第一回内国勧業博覧会の審査官をつとめる
日本における審査官のはじめ
1878 明治11 39 3.28 内務省御用掛・准奏任となる
3.29 千住製絨所長となる
11 群馬・長野を巡回指導
1879 明治12 40 4.7 富岡製糸所長となる(兼務)
9.24 千住製絨所長兼務を免じられ、富岡専任となる
11 横浜繭生糸共進会で審査部長をつとめる
繭生糸審査法を定める
12.3 向島八百松楼で同伸会社の発起演説をおこなう
12.8 福沢諭吉とはじめて面談する
1880 明治13 41 2.1 富岡製糸所第一号館(ブリューナ館)に転居
4~5 静岡・滋賀・岐阜・石川を巡回指導
  富岡製糸所を速水堅曹の私有に委任する密議あり
11.24 内務省御用掛辞任、富岡製糸所長を辞める
教師として引続き指揮監督することを委嘱される
12.15 生糸直輸出会社「同伸会社」横浜尾上町6丁目にて創業 頭取となる
1881 明治14 42 3 第二回内国勧業博覧会の審査官をつとめる
4.2 同伸会社々員2名フランスリヨンに出店のため渡仏
5 同伸会社米国支店を定める
10 群馬県繭共進会の審査長をつとめる
10 横浜生糸荷預所事件おこる
  この年より岩倉右大臣としばしば密談をする
1882 明治15 43 5.8 富岡製糸所を堅曹に委任する件中止となる
9 桐生の七県連合繭糸織物共進会で審査長をつとめる
1883 明治16 44 5 製糸諮詢会掛をつとめる。蚕糸協会を創立する
10 富岡の繭共進会で審査長をつとめる
1885 明治18 46 2.6 同伸会社頭取を辞任 再び官吏になる
2.13 農商務省御用掛准奏任、富岡製糸所長となる
この年より1893年払い下げまで黒字経営とする
3 繭糸織物陶漆器共進会の審査御用掛をつとめる
1888 明治21 49 3~4 大分・熊本・長崎を巡回指導
3.26 九州連合共進会褒章授与式に出席
10 山梨へ出張 山梨県共進会褒章授与式に出席
1889 明治22 50 4.13 富岡にて落馬、腰骨を挫く
1890 明治23 51 10.19 徳大寺侍従長内勅を持ってくる
1891 明治24 52 6 富岡製糸所の競争入札おこなわれる 予定額に達せず
1892 明治25 53 2.22 正六位に叙せられる
1892 明治25 53 6.26 勲六等に叙せられ、瑞宝章を賜る
1893 明治26 54 7.2 板垣退助来場して一泊、懇談する
9.10 再び富岡製糸所の競争入札 三井高保が落札、払い下げ
10.1 富岡製糸所を三井家に引き渡す
10.2 非職となる
11.19 東京浅草区旅籠町(台東区柳橋)に転居
1894 明治27 55   謡曲を学び、神儒仏の大道の研究を楽しむ
4 日本蚕糸会にて演説
4 大日本農会にて演説
1895 明治28 56 3 日本蚕糸会にて演説
  横浜に生糸検査所設置 勤務をすすめられるが断る
1896 明治29 57 5 非職を辞す
6 東京牛込区揚場町(新宿区揚場町)に転居
11 臨時博覧会評議員となる(1900年パリ万国博覧会)
1897 明治30 58 4 大日本農会より紅白綬有功章を贈られる
1899 明治32 60 7 蚕糸業諮問会委員を委嘱される
1905 明治38 66 4 大日本蚕糸会より金賞牌を贈られる
1912 大正元 73 12 正五位に叙せられ、銀杯一組下賜される
12 横浜南太田(横浜市西区霞ヶ丘)に転居
1913 大正2 74 1.17 自邸にて病没 享年七十四